なぜ端宗(タンジョン)は悲劇の王となったのか
朝鮮王朝の第六代王、端宗。
しかし幼くして即位した王は首陽大君(第7代王・世祖)によって宮殿を追われ、
王位だけでなく命まで奪われてしまいます。
なぜ、端宗は悲劇の王となったのでしょうか。
このページでは理由をいくつか解説していきます。
①未成年での即位だったが、垂簾聴政を受けられず、
有力な後ろ盾もいなかった
端宗は、齢十一歳で王位に即位しています。
王が未成年の場合、垂簾聴政(王が幼い場合に大妃などの位の高い女性が
代わって摂政を執ること。男性である重臣達に直接顔を見せるのを
避けるために簾を垂らし政治を行うためこう呼ばれる)を執ることもありますが、
端宗が即位したときにはまだ朝鮮王朝にて垂簾聴政を行った人物はいませんでした。
それに端宗の母代わりであった恵嬪楊氏(ヘビンヤンシ)も
ドラマのように政治に介入したり権力欲があった人物ではなく、
養育や内事を補佐する程度の役割だけを担っていました。
大王大妃もおらず大妃(王の母)も亡くなっており不在であるため、
誰も端宗の政治を補佐できる人物がいなかったのです。
②王権が弱くなり、臣権が強くなった
王が幼く執政がとれないため、必然的に金宗瑞(キム・ジョンソ)や
皇甫仁(ファンボ・イン)などの顧命大臣(王の遺言を受けた大臣。この時は文宗の
遺言ということになる)に権力が集中するようになります。
③首陽大君(スヤンテグン)に反乱の名分を与えた
権力のほとんどは議政府に移ってしまい、王権は弱くなってしまいます。
王が幼いために臣下はそれを最大限支えなくてはならなかったのですが、
それが結果的に王権というものを弱化させ、王という絶対君主であるはずの
存在があってないもの、として扱われてしまっていました。
そこが、王族で最も王位に近いと言われていた実力者の首陽大君に
クーデター(癸酉靖難・ケユジョンナン)を起こさせる名分となりました。
つまり国の根本が弱いせいで、臣下が領分をわきまえなくなり、
ついには徒党を組み安平大君(アンピョンテグン)を
王位に据えよう画策した。
・・・というところなのですが、
金宗瑞らが安平大君側についたのは首陽大君の牽制のためであり、
安平大君がクーデターを起こそうとしたという事実は
どこにもありませんでした。
インス大妃14話「王を守る者」では謀反の濡れ衣を
着せられ安平大君が激しく怒ります。
④首陽大君側に有力な人物が集まった
韓明澮(ハン・ミョンフェ)、申叔舟(シン・スクチュ)や権擥(クォン・ラム)など
武人から文人まで有力な人材を集め、首陽大君は反乱に成功しています。
金宗瑞は武人であり首陽大君を抑え込むことのできる権力者でしたが
まずその金宗瑞を排除したため、その時点で首陽大君の王位簒奪を止められる者は
誰もいなくなってしまいます。